knit

 事の始まりはおばあちゃんがくれたリリアンだったと思う。細い糸が絡みあって、ふかふかした触り心地の太い紐ができた。リリアンからかぎ針に持ち替えるのにそう時間はかからず、中学に入学する頃にはすっかり編み物の虜になっていた。
 そんなわたしが手芸部に食いつかないはずがない。クラスと名前を書いた入部届を手に、家庭科室へ向かう。昨日一通り校内を案内されたが、まだ自分の下駄箱の場所さえあやふやなのだ。おそるおそる廊下を進んでいると、「すみません」と背後から声をかけられた。
「は、はい!」
 振り向けばそこに、銀髪で、眉毛に剃り込みが入ってて、耳にはピアスが光る男の子がいる。
 --不良だ。
 そういえば同じクラスの林くん、見るからに怖いし、東京卍會とかいう暴走族に入っているらしい。林くんだけでなく、他にも東京卍會の構成員が同じ学年にいるらしい。もしやこの人もそうなのでは?
 見るからにガラの悪そうなその人に、わたしは足がすくむ。
「あの、家庭科室って--」
「お金なら持ってません!」
「は? いや、家庭科室ってどこ?」
 これが、わたしと三ツ谷くんの出会いだった。

 家庭科室から校庭の桜が散るのを眺めるのも二回目だ。わたしはかぎ針、三ツ谷くんはミシンを動かしながら会話をする。
「今年は何人入るかなぁー」
「活きがいい奴百人くらいほしいわ」
「三ツ谷くん違うー! 新入部員の話! 活きがいいのは東京卍會のことでしょ!」
 手芸部唯一の男子部員だが、三ツ谷くんの手芸スキルはピカイチだ。見た目こそ出会った頃と変わらない不良のままだが、中身はとても面倒見が良い。それを買われて、今では手芸部の部長だ。
 なんというか、三ツ谷くんはオラオラしていない。東京卍會に入っているのは確かだが、少なくとも学校にいる時はそれを盾に威張ったりしない。それに比べて隣の席の林くんは、頭のてっぺんからつま先まで怖い。声も怖いから、声をかけられるたびに泣きそうになる。だけども林くんが隣の席のおかげで、三ツ谷くんとたくさん話せるようになったのだけど。
 三ツ谷くんと出会って、それまであまり興味のなかった不良と恋する少女漫画も読むようになった。最近お気に入りの作品ができて、掲載雑誌の発売日が毎月の楽しみになっている。読めば読むほどわたしはヒロインが恋する不良に三ツ谷くんを重ねてしまう。
 この前発売された最新号では、めいっぱいおしゃれをしたヒロインに「綺麗だな」と甘酸っぱい台詞を言っていた。もちろんわたしはそのシーンに三ツ谷くんを重ねて、少しだけ夢を見ていた。
「--綺麗じゃん」
「えっ!?」
 一瞬、夢の続きが始まったのかと思った。
 三ツ谷くんが見ているのはわたしの手元、編みかけのモチーフだ。もうすぐおばあちゃんの誕生日だから、夏向きの膝掛けを作っているのだ。グラデーションのサマーヤーンで小さなモチーフを編んで、繋げていく。三ツ谷くんはそれを見て「綺麗」と言ったのだ。
「ばぁちゃんに贈るんだっけ?」
「そうだよ」
「夏っぽい色だよな、これ」
 編み上がっているモチーフをひとつ手に取り、三ツ谷くんがしげしげと見つめる。
「海みたいでしょ」
 海辺の町で生まれ育ったというおばあちゃんは、海が好きなのだ。手芸用品屋でこの毛糸を見つけた時、これしかないと直感した。そこそこのお値段で財布には優しくなかったけど、ひとつひとつのモチーフが小さな海のような色合いに編み上がる。おばあちゃんの喜ぶ顔も想像できるし、思いがけず三ツ谷くんにも褒めてもらえてわたしは口元が緩んでしまう。
 三ツ谷くんはというと、アニメのキャラクターがプリントされた布で上履き袋を作っている。妹のやつ、だそうだ。
「部長ー、すみません。ちょっと見てもらえますかー?」
「はいはい、今行くよー」
 遠くのテーブルから三ツ谷くんを呼ぶ声がした。二年生のグループだ。彼女たちに限らず、手芸部の新入部員は全員一度は三ツ谷くんにびっくりする。だけどもすぐに慣れて、今では三ツ谷くん目当てで家庭科室にちょっかいを出してくる男子生徒を追い払うくらいだ。
 その後もあちこちのテーブルを見て回った三ツ谷くんが使っていたミシンの前に戻ってきた。縫いかけの上履き袋の仕上げにラストスパートをかけていく。やがて部活の終了時間となり、三ツ谷くんは立ち上がって部員に声をかけた。
「時間なので今日の部活はここまで。片付け終わった人から帰っていいよ」
 はぁいと部員が返事をすると、三ツ谷くんが続けて口を開いた。
「あと、最近変なのうろついてるからなるべく何人かで固まって帰って。夜はマジであぶねぇから出歩くなよ」
 何人かが「不良の部長がそれ言う?」と茶化す。三ツ谷くんは「マジであぶねぇから」と念を押すように言った。
 みんな三ツ谷くんの忠告を守り、グループになって家庭科室を出て行く。わたしも仲の良い子と一緒に帰るつもりだ。
「じゃあね三ツ谷くん」
「おう」
 小さく手を振ると、三ツ谷くんも同じように手を振った。

 家に帰ってもわたしはかぎ針を動かしていた。おばあちゃんの誕生日まであまり日がない。間に合わせようとせっせとモチーフを編んでいく。ひとつ編み終え、次を作ろうとした時だった。
「うそ!?」
 毛糸を入れていた袋の中が空っぽなのだ。必要な数を見誤った。残っている毛糸の量ではモチーフの半分も編めない。
 わたしは咄嗟に時間を確認した。まだ手芸用品屋は開いている。急いで買いに行けば……。その時ふと三ツ谷くんの言っていたことが頭をよぎった。
 --マジであぶねぇから。
 でも、毛糸がないと。明日の学校帰りでは間に合わない。きっとまだ大丈夫だろう。わたしは鞄を持って家を出た。
 手芸用品屋は電車で二駅離れたところにある。ドキドキしながら駅へ向かったが、仕事帰りの人や、塾に向かう人が溢れている。なんだ、思ったよりも怖くない。駅前の明るさと人の多さにわたしは安堵し、つい閉店時間間際まで手芸用品屋をうろうろしてしまった。
 念のため毛糸を多めに買い、それから貝殻の形をしたボタンも買った。膝掛けだけど、ボタンをつけて羽織れるようにもしたらどうだろうか。海みたいな青にぴったりのデザインのボタンだ。良いものを見つけたなぁと最寄駅から家までの道を軽い足取りで歩いていく。明かりは徐々に減っていき、周りはどんどん暗くなる。
 少し向こうに人影が見えた。三人、四人? もっといるかもしれない。こんな時間に何をしているんだろう。塾の帰りに、話が盛り上がっているだけかもしれない。咄嗟に感じた不安をごまかすように、わたしは自分に言い聞かせた。
 大丈夫、怖くない--。口をきゅっと結び、わたしは前へ進んでいく。あなたたちなんて眼中にありませんよと、真っ直ぐ前を向いて通り過ぎようとした時だ。
「女の子が一人でどうしたのォ?」
 明らかにバカにしている声色で、そう呼びかけられた。無視無視。野良犬と一緒で、構うから追いかけられるのだ。
 わたしが黙って歩き続けると、更に声をかけられる。
「どーしたのォ?」
「送って行こうかァ?」
 全部無視して通り過ぎた。やり切ったと思ったら、背中に何かをぶつけられた。
「--きゃっ!」
 後ろでカランと音がしたので、投げつけられたのは多分空き缶だろう。空き缶だから、全然痛くない。痛くないけど、いきなりこんなことをされて、驚きのあまりわたしはつんのめり転んでしまった。
「バッカお前、やりすぎ」
「『きゃっ』だって。カッワイー!」
 身体に力が入らない。立てない。今すぐ走って逃げなければいけないのに、わたしは地面に座り込んで硬直している。
 わたしを笑った人たちが近づいてきた。みんな歯を出してにやにや笑っていて、おもちゃを見るような目をわたしに向けている。あっという間に取り囲まれて、わたしは逃げ場を失くした。
「立てるー?」
「怪我してたらオレら家まで送るよ?」
「てかオシッコ漏らしてない? 大丈夫ゥ?」
 怖い怖い怖い怖い助けて誰か助けて--。
 わたしは咄嗟に手芸用品屋の袋を抱きしめる。これだけは奪われたくない、汚されたくない。だが、わたしの行動が裏目に出た。
「何それ? 彼氏からのプレゼントでも入ってんの?」
「やッ……、だめ! 触らないで!」
 大事そうに抱えるそれを暴こうと、前から後ろから手が伸びる。わたしは背中を丸め、しっかりと抱き込んで抵抗した。自分の身体を触られるよりも、プレゼントの材料を汚される方が嫌だった。
 そうこうしているうちに、一人のスイッチが切り替わったらしい。わたしを後ろから押さえつけようとしてきた。
「やだ……ッ! 離して! 嫌ッ!」
 その時だった。
 夜中に時折聞こえる、バイクのエンジン音。だんだん大きくなってくる。わたしは一縷の望みをかけて、音のする方に向けて思い切り叫んだ。
「助けて!」
 バイクの主がこの人たちの仲間か、もっと怖い人だったらジ・エンドだ。だけどもわたしは必死に叫ぶ。
 近づいてきたバイクのヘッドライトが顔に当たり、わたしは顔をしかめた。
「オマエ……!?」
 その声にわたしはどれだけ安堵したか。
「三ツ谷くん……」
 助けてと叫んだ時、頭に浮かんだのは三ツ谷くんだった。お気に入りの漫画に、ヒロインのピンチに不良が駆けつけるシーンがあったのだ。あのシーンのように、三ツ谷くんが来てくれたら。恐怖の中で縋った幻想なのに、わたしの目の前に三ツ谷くんがいる。
 地面にへたり込んだわたしと、わたしを囲む人たち。三ツ谷くんは瞬時に状況を把握したらしい。バイクから降りると、こちらにゆっくり近づいてきた。
「やべ、トーマンの奴じゃん!」
 三ツ谷くんは静かに相手を睨んでいる。ぴりぴりした空気が伝わってきた。
「トーマンっつても一人だぜ?」
「バカ、近くに他の連中が潜んでるんだよ!」
 ひそひそ話す人たちに、三ツ谷くんが一歩距離を詰める。すると、蜘蛛の子を散らすように、わたしを取り囲んでいた人たちは走っていってしまった。
「夜はあぶねぇから出歩くなって言っただろうが」
 三ツ谷くんはため息をついてわたしの前にしゃがみ込む。
「……毛糸……足りなくなっちゃって……」
 わたしが小さな声で言い訳をすると、三ツ谷くんは「そっか」とだけ返した。そして立ち上がり、わたしに手を伸ばす。
「立てる?」
「……ひっ!」
 反射的に身体が引いた。あの怖い人たちではなく、三ツ谷くんなのに。
「あ、あれ? ごめん……、大丈夫、立てる……、か、ら……」
 三ツ谷くんの目がどんどん丸くなっていく。それもそのはず。わたしの目から、ぽたぽたと涙が落ちているのだ。
 やっと身体の緊張が解けて、気持ちが追いついてきた。
「こわかった……、怖かったよぉー、三ツ谷ぐんが、みつやぐんが、来てくれなかったら、ッヒ、う、っぐ」
 地べたに座り込んで、声を上げて、わたしは子供のように泣きじゃくった。ひとしきり泣いて、浅くなった呼吸を落ち着けていると、ずっと黙っていた三ツ谷くんが口を開いた。
「いつまでも地べたに座ってたら汚れるだろ」
 そう言ってまた手を伸ばして、ハッと思い出したように引っ込める。その気遣いを無碍にしたくなくて、わたしはよろよろと立ち上がった。
「なんか飲み物、いる?」
 三ツ谷くんの親指が差す方向--今いる場所からでも指差すものが何かわかるくらいの距離のところに自販機がある。ほんの数メートルだ。何かあればすぐに気付ける距離。心配なんてない。だけどもわたしは首を振った。
「……ひとりにしないで」
「そうだよな」
 泣いたせいで喉はひりひりしている。かすれた声で、少女漫画のヒロインみたいなことを言うなんて思わなかった。三ツ谷くんに言うなら、もっと可愛い声で言いたかった。
「……三ツ谷くん、どうして」
 来てくれたの?
 かすれた声でわたしが問うと、三ツ谷くんはいつもの調子で答えた。
「偶然」
 本当に偶然だったらしい。
 たまたまこの方面が気になってバイクを走らせていたという。
「……ありがとう」
「礼はいらねぇよ。明日っからうちの隊にこの辺巡回させるわ」
 やっと落ち着いてきて、改めて三ツ谷くんを見れば、特攻服と呼ばれるものを着ているではないか。たまに三ツ谷くんが家庭科室で塗ったり刺繍したりしているから、初めて見るものではないけれど……。それにごく当然のように受け入れていたけれど、バイクって本来十六歳にならないと免許を取れないのでは……。
 三ツ谷くんは、正真正銘の不良だ。
 でも、手芸が得意で面倒見がよくて、わたしの危機を救ってくれた。まるでお気に入りの漫画の世界に落とされたように、わたしの目に映る三ツ谷くんがきらきらと輝いて見える。
「そろそろ帰らねぇと家の人心配するんじゃねぇか?」
「……あ。うわ、もうこんな時間!?」
 三ツ谷くんに言われて慌ててバッグから携帯を出すと、家を出てからかなり時間が経っている。
「バイク、嫌じゃなければ乗るか?」
「……嫌って言ったら?」
「ずーっとトロトロ低速でオマエの後ろついていく」
「じゃあ、乗る」
 乗る乗らないに関わらず、三ツ谷くんはわたしを送ってくれるつもりだったようだ。
 三ツ谷くんはバイクに跨るとエンジンをかける。
「じゃ、後ろ乗って」
 手渡されたヘルメットを被り、わたしは三ツ谷くんの後ろに座った。
「えっと、これで大丈夫……?」
 自分の鞄に手芸用品屋の袋。ひとまずまとめて抱えてみたが、バイクが走り出す前からバランスが危うい。
「落ちるからもっとこっち寄って」
「……うん、わかった」
 三ツ谷くんの背中とわたしのお腹で荷物を挟むようにしてみたが、まだ危うさが残る。しかし仕方ないと言わんばかりに、三ツ谷くんはゆっくりとバイクを走らせた。
 ゆっくり、ゆっくり、もしかすると自転車の方が速いのではないか。だけどもわたしにとってはこの速度がとても嬉しかった。三ツ谷くんがこんなに近くにいる。三ツ谷くんの背中に頬をくっつけることができるくらいの距離でずっといたかった。
 わたしの家の近くまで来ると、三ツ谷くんは周りの家の外観を見てぽつりと言った。
「オマエ、オジョーサマなのか?」
「ふつうの家だよ。お父さんサラリーマンだし」
「でもこの辺、でけぇ家ばっかじゃん。なんでうちの中学にいるんだよ」
 三ツ谷くんの言う通りだ。この辺の家の子は、公立中になんか行かない。
「……中学受験失敗したのー。試験日にインフルエンザで熱出して」
 不良は怖いもの、近づいてはいけないものだと教えられてきた。中学受験に失敗した時はお母さんを泣かせた。それを話したら、三ツ谷くんが「こんなとこ見られたらやべぇだろうな」とばつが悪そうに言う。
「三ツ谷くん、もうちょっとだけ」
 喉元まで「好き」という言葉がせり上がっていた。言いたいけど、まだ言う時ではない。
「あのね、毛糸と一緒に貝殻の形のボタンを買ったんだ。膝掛けにそれをつけて、羽織れるようにもするんだ」
「……へぇ、センスいいじゃん」
「遅くに出歩いてたのはボタンを選んでいたからです。ごめんなさい、部長」
「別に怒ってないって」
 それを聞いたら安心して、わたしは三ツ谷くんのバイクから降りた。ヘルメットを脱いで三ツ谷くんに返す。
「本当にありがとう!」
「何度も言うなよ、照れるだろ」
「ね、三ツ谷くん」
「ん?」
「彼女、募集してる?」
「今はしてねぇよ」
「ふーん……」
 きっぱりと言い切るのが三ツ谷くんだなぁと、振られたような返事なのにわたしは胸が躍っていた。
 不良だけど手芸部で面倒見がよくて、優しくて、硬派。三ツ谷くんて、かっこいいなぁ。
 家に帰って、お母さんに適当に言い訳をして自分の部屋に入った。窓を開けると、わたしが家に入るまで待っていた三ツ谷くんがちょうど戻るところだった。エンジンの音が遠ざかっていく。三ツ谷くんの背中が見えなくなるまでわたしは窓の外を眺めていた。