「貴女は、どうしようもない人だ」
冷やかな声でへし切長谷部が言った。
声色に含まれているのは呆れと失望。今まで耐えに耐えてわたしに付き従っていた刀の付喪神は、この日とうとう匙を投げだした。
ただ審神者の適正があるだけで抜擢され、近侍としてへし切長谷部を与えられ、右も左も分からぬままわたしは時を遡った。精神の成長が追いついていないのは自分でも分かっている。少し成長したと思えば、成長した分以上の失態を犯して逆戻りする。その度にいじけて部屋にこもり、部隊の指揮も長谷部に丸投げしていた。
少し調子が良ければ、自分の立場を利用してあれやこれやと長谷部に言い付ける。やれ掃除をしろだの、買い出しに行くから荷物を持てだの、格式高い刀の付喪神を小間使いのように扱っていた。長谷部は決まって「主命とあらば」と答える。なんて忠誠心の高い言葉なのだろうと都合の良い解釈をしていたが、彼の真意は違っていた。
――本意ではないが、自身の主に当たる人物が言うので従うのみ。
かつて戦国の魔王の側に在った刀にとっては、出来の良い側近を演じることなど容易いことであった。
長谷部は一度もわたしに逆らわなかった。部屋にこもり襖を隔てて「長谷部が指揮して」と言った時は「かしこまりました」とだけ。庭の掃除をしろと思いつきで言った時は、「主が命じるのであれば、それも俺の仕事です」と。長谷部に理不尽なことを言う度に、心のどこかで早く叱って欲しいと思っていた。何を言っても頷くだけの長谷部の臨界点を教えてもらいたかった。そうでないとわたしは試し続けてしまう。長谷部はどこまでわたしを受け入れてくれるのか、と。
気付いた時にはもう臨界点は越えてしまっていた。長谷部はわたしを見限ったのだ。
「あの……、……せ、べ……」
声が出ない。喉がきゅっと締まって、口が痙攣している。
いつも思うだけで告げていなかった言葉はたくさんある。「ありがとう」も「ごめんなさい」も十分に言えていなかった。いじけた翌日は真面目に仕事をしてみせて、態度で誠意を見せたつもりでいた。だけどもそんなの、ちっとも伝わらない。
どうしようどうしようと身体が震えてくる。長谷部が離れたらわたしはどうすればいい。これまで散々放っておいた別の刀剣を長谷部の代わりにするなんてできない。彼らはきっと、長谷部以上にわたしのことを見限っているはずだ。
気付けば八方ふさがりのところに押しやられていたわたしは、もう泣く以外の手段が浮かばなかった。俯き、唇を噛みしめるとじわっと両目から涙が溢れ出す。
本当にろくでもないわたしの心は、泣くことで長谷部がうろたえること、あわよくば発言を撤回してくれると期待していた。鼻をすすり、肩を震わせ、長谷部の反応を待った。
「――泣けば助かるとでも?」
「ち、違ッ……、っく」
ろくでもない期待はあっさりと砕かれる。わたしは即座に頭を振って誤魔化したが、長谷部には胸の内を見透かされているかもしれない。
「違うのならば何です? 俺には、稚児が駄々をこねるようにしか見えませんが」
言おう。遅くなったけど、ちゃんと言葉にすれば長谷部に伝わるかもしれない。ずっと口にせず己の中にとどめていた言葉を、ここぞとばかりにわたしは吐き出した。
成長できなくて申し訳ないといつも思っていること、長谷部にはいつも感謝していること、もっとちゃんとできるようになりたいと考えていること、長谷部に甘えてくだらない命を押しつけてしまうのはすまないと思っていること。溜めに溜めすぎて、言葉の脈絡はひどいものになってしまったが、わたしは言えなかった想いを長谷部に全て話した。
「お願い長谷部、側にいて。わたしは、長谷部じゃないとだめなの」
縋る気持ちでわたしは言った。
わたしには勿体ないほど、へし切長谷部は素晴らしい刀であり付喪神であった。劣等感の塊であるわたしが唯一誇れることは、このへし切長谷部を従えていることだけだった。長谷部が自分の意のままに動く姿を見て欲求を満たしていた。歪んだ優越感の根底には、長谷部への憧憬と嫉妬。長谷部に焦がれて、構ってほしくて、わたしは自分の立場を利用していた。
長谷部は分かってくれるだろうか。思い改めてくれるだろうか。なんとも都合の良い結末を思い描きながら、わたしは視線を上げる。――刹那、長谷部の冷めた瞳とかち合った。
「本当に、どうしようもない」
ため息、抑揚のない声、暗い目。ぞくぞくと背中が震えた。
長谷部はそれ以上は何も言わずわたしの前から退いた。とうとう見捨てられたと頭の中が真っ白になる。どうしよう、まだ任務は終わっていないのに。どうしよう、続行不可能って申し出て、強制帰還させてもらおうか。前進することを諦めたわたしは、ここから逃げることだけを考え続け、気付けばそのまま意識を手放していた。
「主、起きていますか? 間もなく出陣の刻となりますが、今日はどのような指揮を?」
身体の痛みと長谷部の声で覚醒する。ハッと起き上がり、まずは自分が畳の上に寝転がっていたことを把握した。布団を敷かなかった上に、変な体勢で寝ていたからあちこちが痛い。返事のないわたしを急かすように、襖の向こうから長谷部がもう一度問うた。
そんなの、起きてすぐの頭では考えられない。答えを急かされ、わたしはつい「長谷部に任せる」と言ってしまった。一拍の間を置いて、「かしこまりました」と長谷部が答えた。昨日の今日でこのありさま。慌てて襖を開けたがもう長谷部はいない。昨日向けられた蔑むような目を思い出し、ガタガタ震える。生殺しの状態のままわたしは一日を過ごした。せめて雑務くらいはしておこうと文机に向かったが、目の前の書の内容は頭を通り抜けるだけ。溜まった雑務はほとんど片付かず、どうにか終わらせたものも誤字脱字だらけで目も当てられない仕上がりだった。
日が暮れ、方々へ出陣していた部隊が続々と帰還する。長谷部がここに来るのも時間の問題だ。長谷部が来たら、朝のことを謝らなければ。喉元を押さえながら謝罪の言葉を繰り返し呟いていたその時、「ただいま戻りました」と長谷部の声がした。
「戦果の報告と、遠征に出ていた部隊が持ち帰ったものがありますのでお持ち致しました」
長谷部の声は普段の調子と変わらない。が、今のわたしにはそれが怖い。押し黙っていると、長谷部が問うてくる。
「主? 開けてもよろしいですか?」
「ど、どうぞ」
襖を静かに開け、長谷部が一礼して中に入って来た。淡々と戦果の報告を行い、遠征部隊が持ち帰ったという小判箱を差し出す。
「あの、長谷部……」
「はい、何でしょう」
「今朝は、ごめんなさい。長谷部に任せてしまって……」
わたしは必死に声を絞り出して言ったのだが、長谷部の反応はなんともあっさりしたものだった。
「いえ、主がそう命じたのなら俺は従うまでです」
またあの目を向けられるかと胆を冷やしていた。しかし目も声色も、普段の長谷部のそれだ。
怯えていた身体がほっと安堵するのが分かる。更に数日は気を付けて過ごしたが、長谷部は冷ややかな声も目も向けなかった。
長谷部は思い改めてくれたのだ。ならばわたしも応えないと、と仕事に精を出す。何事もなかったかのような日々が続き、だんだんとわたしの性根も元に戻っていく。少しくらい大丈夫だろうと手を抜けば、連鎖して次々に綻びが広がりやがて大きな穴となる。帳尻合わせに詰まってわたしは仕事を投げ、長谷部に無理を言う。巡り巡って全てが元に戻っていった。
話があると長谷部に言われた時からなんとなく予感はしていた。わたしもこの時を待ちわびていた。わたしの前に正座した長谷部が冷ややかな声で言う。
「貴女は、どうしようもない人だ」