シャーリー・テンプル、
ピカデリーナイトに気を付けて

 二宮はお酒を飲まない。いつ何時でもジンジャーエールだ。だが、ジンジャーエールも侮れない。大衆系の居酒屋からこじゃれたバーまで、ジンジャーエールを置いている店は多い。中にはシャンパン代わりに出す洋食店もあるそうで、ノンアルコールドリンクといえど、二宮はなかなか賢い選択をしていた。
 しかしこれを面白く思わないのが太刀川や諏訪さんで、「二宮に酒を飲ませてみよう!」と前々からよからぬことを企てていた。アルコールを受け付けない体質だったらどうするつもりなのか。学科が同じせいでしょっちゅう顔を合わせる太刀川が飲み会を企画する度、わたしは「やめときなよ」と忠告した。
 何度も太刀川に言ったのに、太刀川はついに実行してしまった。二宮が中座した隙に、二宮の席にあったジンジャーエールをお酒とすり替えたのだ。すっかり酔いの回ってる太刀川と諏訪さんは二宮の帰りを今か今かと待ち望んでいるし、風間さんは我関せず。のんちゃん――加古望――はのんちゃんでお喋りしていて、二宮のことを心配しているのはこの場にわたしだけだった。

、絶対バラすなよ」

 わたしの席が二宮の隣だからか、太刀川がしつこいくらい釘を刺してきた。二宮が飲み物すり替えに気付いたらまず隣に座ってるわたしを問いただしそうだし、かといってバラせば太刀川や諏訪さんに責められる。どちらも回避できる良い策はないかと頭を働かせるも間に合わず、二宮が戻ってきてしまった。
 電話をしていたようで、二宮は手に持ったままのスマホをしまうと、喉を潤すべくグラスを手に取る。「あ、」と言いかけたわたしを、太刀川が視線で牽制した。
 グラスを傾けた二宮は、ごくごくと飲み干す勢いでお酒を喉に流し込んでいく。気付いて二宮と心の中で叫ぶも届かない。結局一気飲みしてしまった二宮を見て、太刀川と諏訪さんは小さくガッツポーズを決めた。
 ここで二宮がバターンと倒れたりしたら良かったのに、顔色一つ変えずにいるから太刀川と諏訪さんが調子に乗ってしまったではないか。「ほら、飲み物注文しといたぞ」と差し出したそれは、またしてもお酒。二宮にバレにくいよう、ジンジャーエールベースのカクテルをピックアップしていたのだ、この二人は。二宮が「どうも」と馬鹿正直に受け取ろうとしたから、思わず割って入ろうとしたのだがまたしても太刀川に牽制される。

、鼻毛出てる」

「――ッ!?」

 慌てて手で鼻から下を覆い、バッグを掴んで立ち上がった。お手洗いの方へ駆けるわたしの背中に「嘘だよ、嘘」と太刀川の言葉が投げかけられる。そう言われても、すぐ席に戻るのはなんだか癪だし、ちょうどトイレに行きたかったからわたしは振り向かずお手洗いへ向かった。
 賑やかさから隔離されたトイレの個室で、少しぼんやりとしていた。わたしは太刀川と同じ学科で、やれノート見せてくれだの、代返頼むだの、嬉しくない意味で仲が良い。二宮とのんちゃんが同じ学科で、二人が一緒にいると美男美女の組み合わせであたかもドラマのワンシーンのよう。のんちゃんにその気はないのは分かっているが、心が悶々としてしまうのだ。
 あまり長居すると、酔った太刀川があらぬことを言うだろう。名誉を傷つけられる前に戻らないと。個室を出て手を洗い、スカートの裾を直すとわたしは皆のいるテーブルに戻った。
 戻ってすぐ、わたしは異変に気付いた。二宮がテーブルに突っ伏しているのだ。空グラスは片付けられていたが、これは、相当飲ませたのではなかろうか。

「ちょっと、どれだけ飲ませたの?」

「二杯だよ二杯。最初に取り換えた一杯と、その次に渡した一杯だけ。たった二杯でこの有様」

 太刀川の説明に諏訪さんも頷く。どちらもアルコールの強いやつではないはずだ。だとしたら、二宮は相当お酒に弱いことになる。
 ひとまず意識があるか二宮の肩を揺すると、のそりと二宮が身体を起こした。

「二宮、大丈夫?」

 二宮の顔を見れば、一目で酔ってると分かった。頬は紅潮しているし、若干据わった目は充血している。うーと小さく唸った二宮に、タイミング良く店員さんが持ってきたお水を差し出す。二宮は無言で水を飲むと、またぱたりと伏せてしまった。
 この様子に、自然とお開きムードが漂ってくる。諏訪さんが手際よく会計を済ませ、今日はお開きとなった。

「帰るよ二宮、立てる?」

「二宮、帰るぞ」

 一応こうなった責任は感じているのか、太刀川が二宮を抱えて椅子から立たせる。そしてそのまま引きずるように二宮を外へと連れ出した。
 わたしもその後ろに続き、店を出る。ちょうど店の向かいに自販機があり、わたしは二宮に飲ませようと急いで飲み物を買った。
 太刀川に支えられ、危なっかしい足取りで二宮が歩く。少しばかり覚醒したのか、太刀川と何か喋っているようだ。それを後ろから見ていたら、急に二宮が太刀川を振り払ったではないか。自分で歩けると言っているらしい。そうして太刀川から離れた二宮は視線をきょろきょろ動かし、「!」とわたしの名前を呼んだ。
 二宮はわたしを探しているのだろうか。振り返った二宮がわたしの姿を捉えると、よろよろとこちらに向かってきた。

「おい、かえうぞ、

 ――おい、帰るそ、
 呂律が回っていない、べろんべろんの口調でそう言うと二宮はわたしの肩をバシンと叩いた。痛いと言っても止めてくれず、わたしが「分かったよ! 帰るよ二宮!」と大きな声で言ってようやく納得して手を止めてくれた。
 皆の視線が突き刺さる。風間さんは無言で凝視、諏訪さんは意味ありげに笑っている。太刀川とのんちゃんに至っては「おやおや」「あらあら」と二人でにやにやしているではないか。わたしは二宮にがっちり腰を抱かれ、必要以上に密着している。気分的には足元のおぼつかない二宮の杖にでもなった感じなのだが、皆の目にはそう映らないらしい。
 二宮にくっついてしまっているせいで、わたしまで上手く歩けなくなってしまった。よたよたと、右に左に跛行しながら前へと進む。わたしより背丈のある二宮がこっちに体重をかけてくるせいで、危うく転びそうになったりもした。
 いい加減わたしも疲れてきて、一度止まろうと二宮に提言する。二宮は相変わらず「帰るぞ」と舌足らずに言うが、適当に流してさっき買ったペットボトルの蓋を開けた。

「二宮、これ飲んで」

 そう言って二宮にペットボトルを差し出す。素直に受け取った二宮が飲み口を傾け、飲んだ――と思ったら盛大に咽た。
 それだけで済めば良かったのだが、咽た反動で二宮の持っていたペットボトルが揺れ、中身がわたしに降り注ぐ。災難はまだ終わらない。わたしはお茶を買ったつもりでいたのだが、ボタンを押し間違えたらしい。ふわっと香る甘い匂いに、おそるおそる二宮の持っているペットボトルを見れば、中身はカフェオレ。ということは、わたしの服はカフェオレまみれだ。
 異変に気付いたのんちゃん達が引き返してきてくれたが、ゲホゲホ咽てる二宮と、カフェオレにまみれたわたしを交互に見て、ご愁傷さまという表情を浮かべた。

「早く洗わないとシミになるわよね、これ……」

「うん……」

 洗うにしても、まだ家までは距離がある。結構お気に入りの服だから、一刻も早く綺麗にしたい。うなだれるわたしに、太刀川がとんでもないことを言った。

「こんなところに丁度良くラブホが」

 何言ってるのと呆れながらも太刀川の指さす方を見ると、路地の向こうに煌々とネオンの輝く建物が。
 あそこなら、きっと服を洗う洗面台もあるし、乾かすドライヤーもある。悔しいことに、一瞬気持ちが揺らいでしまった。

「二宮も歩けないみたいだし、! なっ!」

「えっ、何が『なっ』なの!? 嫌だよ行くなら一人で行く!」

「……お前、ラブホに一人で入るとか上級者すぎるだろ。フロントで呼び止められるぞ」

「やけに詳しいじゃん太刀川……」

 わたしは断固として首を振るが、この場の空気はだんだん決まり出していた。風間さんと諏訪さんが何やら二宮に吹き込んでいる。たまに路地の向こうのラブホを指さしているのが非常に気になる。のんちゃんも「酔っ払いでも二宮が付いてた方が……」と肯定的。
 そうだ、二宮が帰るとごねれば! そう思いついたわたしは、二宮に帰りたいか尋ねてみた。

「二宮は帰りたいよね? 家のベッドでぐっすり寝たいよね?」

「……おえは、べつに、どこでも」

 「それなら今ここで寝ろ!」と悪態を吐きたくなるような答えだった。結局二宮の返事が決定打となり、わたしは二宮とネオン輝くラブホに入る羽目になってしまった。
 酔いが回り立つのもやっとな状態の二宮を抱え、太刀川やのんちゃん達と別れる。

! 既成事実作れ!」

「そうよ、ついでに服のクリーニング代も貰いなさい!」

「二宮がゴネたら俺たち証人になるから!」

 あまり嬉しくない声援を背に、わたしは路地を進んだ。
 ええいままよと、ラブホのエントランスを抜ける。てっきり人がいるかと思ったフロントは無人で、代わりに大きなタッチパネルが置いてあった。明るく表示されている部屋が、利用可能らしい。いかにもラブホという雰囲気の部屋ではなく、なるべく普通のホテルっぽい部屋を探す。
 数部屋に絞り込み、あとは料金と設備で選ぼうとしたのだが、背後の自動ドアが開いた。別の客が来たことに焦り、わたしはちょうど見ていた部屋を選択してしまった。受付が完了したことと、そのまま部屋へ向かえという案内が表示され、わたしは二宮を引きずってエレベーターへと急いだ。
 部屋の鍵とか、どうなっているんだろう。あと、代金って後払いでいいんだよね。様々な不安を胸に、エレベーターを降りたわたしは選んだ部屋の前に立つ。ドアノブを掴むと、開錠されているそれはぐっと下がり、鍵がなくとも部屋に入れた。
 部屋は土足禁止のようで、ドアの横にシューズボックスが設置されている。

「二宮ー、靴脱げる?」

 わたしが尋ねると、二宮はごそごそと革靴のシューレースを解き始めた。わたしもパンプスのストラップを外して脱いだ。
 ひとまず靴はそのままにして、二宮を支えながら奥へと進む。メインとなるベッドルームの明かりを点けると、部屋の全貌が目に飛び込んだ。たぶん、これまで泊まったことのあるホテルで一番豪華かもしれない。二人どころか三人くらいで寝れるんじゃないかと思うくらい大きなベッドは天蓋付き、これまた大きなテレビとソファ、テーブルまである。
 はしゃぎまわりたい気持ちを押さえ、今にも崩れ落ちそうな酔っ払い二宮をベッドへ連れて行った。

「はい二宮、ベッド到着! もう寝ても大丈夫だよ」

「……も」

 二宮を寝かせてベッドから降りようとしたのだが、どういうわけだか二宮は離してくれない。離してよ、と二宮の方に向き直ると体重をかけられバランスを崩した。そして気付けば、尻もちをついたわたしに二宮がしがみ付いている状態。しかも二宮の顔がちょうどわたしの胸元に。
 うーん、頭とか撫でた方がいいのだろうか。思わぬ事態に悩んでいると、二宮が酷いことを口走った。

「……硬ぇ……、貧乳……」

 ゴロン、と効果音が付くくらいの勢いで、わたしは二宮を引きはがしてベッドに転がした。「おやすみ二宮!」と転がった二宮に言い捨て、ベッドから降りる。
 胸が小さいのは事実だけど、勝手に人の胸元に顔を埋めて硬いだの貧乳だの言うのは失礼極まりない。もう二宮なんか知らないと、わたしは洗面台に向かった。
 ベッドルームの外にあったドアを開ければ、そこは予想通り洗面台とバスルームだった。洗面台との仕切りがガラス板なのが気になるけど、ベッドルームから隔離されているからマシだろう。一応施錠して、汚れた服を脱ぐ。洗面台にぬるま湯を張り、洗剤……がないので代わりにハンドソープを少し垂らして服を沈めた。
 つけ置きしている間はシャワーを浴びることにして、残りの服を脱ぐ。クレンジングや化粧水などのアメニティは揃っており、一晩過ごすには何も困らなさそうだ。
 ガラスの引き戸を開けて、広いバスルームへ入る。一人で使うにはあまりにも広い。ああそうか、二人でも使えるように……。と、不意に二宮の顔が頭に浮かぶ。いやいやいや、それはない。絶対ない。二宮の顔を消すように、わたしはシャワーノズルを回して頭からお湯を被った。
 ――本当なら、この状況は喜ぶべきなのかもしれない。でも、二宮は酔ってダウンしているし、二宮から距離を取ったのは他ならぬわたし自身だ。こんな時だけ都合良く捉えるのはずる過ぎるだろう。
 シャワーを終えて、身体はさっぱりした。迷ったが着ていた服をもう一度着る。化粧水やら乳液やらでお風呂上りのルーティンを済ませ、洗面台に沈めた服を洗った。洗い終えたそれをドライヤーで乾かしてからベッドルームに戻る。

「にのみや~?」

 もう一度だけ、二宮に意識があるか確認したくて名前を呼んだ。しかし返事はない。大きな大きなベッドの上で、二宮はぐっすり眠っていた。
 さて、わたしは何処で寝ようか。二宮の隣は空いているが、堂々と横になるのは気が引ける。やはり、ソファか。枕をひとつと、ブランケットを一枚拝借して、わたしはソファの上で寝転がった。
 一度は広がった距離なのに、どうして今日こんなにも縮まったのだろう。二宮から逃げるように隊を辞めることを告げたあの日の記憶が甦ってくる。



 二宮率いる二宮隊がまだA級だった頃、わたしは隊のオペレーターを務めていた。
 同じ隊で、同じ学校。四六時中顔を合わせているうちに、わたしはだんだんと二宮に惹かれていった。元々持っていた戦闘センスに加え、東さん仕込みの戦術。それらを巧みに使いこなす二宮の姿は、同じ隊の贔屓目を抜きにしても、惚れ惚れするものがあったのだ。
 しかし、自分の師匠や隊長を誇りに思う感情と、わたしが二宮に抱いた感情は違っていた。それを自覚したのは、とある任務中のこと。少し無理をして敵陣に突っ込んだ二宮に、「逃げて」と感情丸出しのことを言い放ってしまったのだ。危なくなったら緊急脱出を指示しろなんて言われていない。一人で数体を相手にする二宮にはらはらしてしまって、わたしが勝手に叫んでしまったのだ。
 わたしの声に気を取られ、一瞬の隙を突かれた二宮が反撃に遭い緊急脱出するという、二宮に相応しくない結果を招いてしまった。作戦室に戻ってきた二宮の、凍り付くような視線は未だに覚えている。

「……ご、ごめん二宮」

「……犬飼達に指示を出す。退け」

 頭の中は真っ白になっていた。
 わたしはなんてことをしでかしたのだろうと、ぎゅうと拳を握った。二宮が責めてこないからなおさらきつい。この日以来、わたしは二宮と視線を合わせられなくなってしまったのだ。
 あからさまに凹んでいるわたしに、のんちゃんが言った。

、私情を持ち込んだわね」

「……その通りです」

 わたしはオペレーターに向いていなかったのだろう。二宮一人に肩入れして、任務達成よりも二宮の無事の方を優先してしまう。遠征部隊への選抜も控えているのに何というざまだ。このままでは、わたしが隊の足を引っ張ってしまう。
 いささか短絡的だったかもしれないが、わたしは逃げる道を選んだ。わたしが、わたしのせいだ、と勝手に自分を罪人に仕立て上げ、隊を辞めると二宮に告げた。後任は氷見ちゃんに頼んである。氷見ちゃんはわたしよりずっと冷静で、的確なオペレートができる。
 二宮にとってはそんなことは青天の霹靂で、そりゃあもう、何度もわたしを問い詰めた。考え直せとも言ってくれたが、わたしの腹は決まっていて、何を言われても意思は曲げなかった。最後は二宮もあきらめたように、わたしの離隊を認めた。
 いっそこのままボーダー自体も辞めてしまおうかと思ったが、上に引き留められ、わたしは今もボーダーに籍を置いている。二宮とは距離ができたからか、表面上は普通に接することができるまでに気持ちは落ち着いた。だけども心の深いところでは、二宮のことを想っていた。二宮が活躍すれば嬉しいし、危険な任務に赴けば不安になる。何より、二宮隊が降格処分となった時は、もはや関係ないことなのに自分のことのように考えてしまっていた。
 そんないざこざがあったくせに、どうして今二宮とラブホにいるのだろうか。太刀川達の悪乗り、零れた飲み物、二宮の思わぬ言葉、そして結局流されてしまうわたし。だめだなぁ、弱いなぁわたし、と断れきれなかった自分を笑う。
 しばらくスマホを弄っていたが、だんだん瞼が重くなってきた。一旦ソファから起き上がり、部屋の電気を消す。離れたベッドに眠る二宮は相当熟睡しているようで、ぴくりとも動かない。何も起こらないまま夜が明けそうだ。

「……おやすみ、二宮」

 わたしが二宮に向けて言った言葉は、部屋の闇へとすっと溶けて消えてしまった。



 ぱちり。意外と目覚めはすっきりしていた。少しだけ背中が痛いのは仕方ない。身体を起こしてぐっと腕と背中を伸ばす。

?」

 その声に振り向けば、二宮も身体を起こしていた。

「あ、おはよう」

 何もなかったことを知っているわたしに対して、二宮の記憶はおぼろげなのだろう。しばらく黙ってわたしを見つめていた。

「……風呂場はどこだ?」

「え? あ、お風呂? そこ出て左だよ」

 唐突な質問にわたしが答えると、二宮はベッドを降りてお風呂場の方へ向かったではないか。二宮の行動に、しばらくわたしは放心していた。起きてまず聞くことが、事の顛末ではなくお風呂場の場所。しかも行くのかと、まだ二宮は酔ってるのかと疑いたくなる挙動だ。
 そのうちにシャワーの音が聞こえてきて、わたしは二宮のマイペース具合に脱力してしまった。

「……なんか、緊張してたのがバカみたい」

 陽が射し込み明るくなった室内を見渡すと、入った時には気付かなかったものがあちこちにあった。手近なところにあった冊子を開けば、ファミレスのメニューよろしく美味しそうな写真が並んでいるではないか。ぺらぺらページをめくっていくと、最後のページに注文方法が載っていた。フロントに電話をして注文すれば、部屋まで届けてくれるとある。
 フードメニューを見ていたら、なんだかお腹が空いてきてしまった。どうしようか迷っていると、二宮が部屋に戻ってきた。

「二宮も何か食べる?」

「は?」

 二宮の眉間にしわが寄る。

「せっかくだし朝ごはん食べていこうよ」

「……お前ずいぶん肝が据わってるな」

「起きてまずお風呂入った二宮に言われたくないんだけど」

「……チッ、部屋代は俺が出すが、注文した分は自分で出せよ」

「えっ、いいよ! 部屋代はワリカンしよ!」

「いい」

 何度か食い下がったが、部屋代は二宮が出すと言って譲らなかった。部屋代の話が済み、いよいよ本格的にお腹が空いたわたしは朝ごはん代わりのパンケーキを注文する。メニューの写真を見た二宮が、しかめっ面で「朝からよく食うな」と呟いた。
 程なくして部屋にパンケーキが運ばれてきた。有名店のそれを模した、フルーツとクリームがどっさり乗ったリコッタチーズパンケーキだ。部屋の入口で受け取ったパンケーキを喜々としてソファのところへ持ってきたわたしに、二宮が呆れたような目を向ける。

「二宮も食べる?」

「……結構だ」

 丁度良い居場所がソファしかなく、既に腰掛けてる二宮の隣にわたしも座った。手持無沙汰なのか、二宮がリモコンを手に取る。

「――ッあ、だめ、だめぇッ」

 突如嬌声が大音量で響き渡った。何事かと視線を動かすと、目の前のテレビで濡れ場が大写しになっているではないか。男女がくんずほぐれつよろしくやっている光景にぽかんとしていると、ぷつりと画面が消えた。

「……二宮、何してるの……?」

「点けたら映っただけだ」

 平静を装っているが、二宮は相当焦ったようで、投げるようにリモコンをテーブルに放った。居心地の良さでちょっと忘れかけていたけど、ここはラブホ。盛り上がってるところでニュースが流れたら気分は萎えるだろう。だから、たぶんそんな理由でデフォルトがアダルトチャンネルになっているのだと思う。
 二宮のせいで場の空気が気まずくなってしまった。一瞬とはいえ、二宮とAVを観るなんて……。笑い飛ばすことも恥じらうこともできない。わたしは意識をパンケーキに向け、黙々とフォークでそれをつついていた。
 懲りずに二宮は近くにあったカタログのようなものを手に取り、開くと――即座に閉じた。また変なものを見たんだろう。もう、じっとしてればいいのに。それを口に出すと、舌打ちされた。

「お前は何で落ち着いていられるんだ」

「一晩過ごしたら慣れた」

「……人の気も知らないで」

 それはこっちの台詞だ。汚された服のこととか、他にも二宮に言いたいことはたくさんある。

、聞いてもいいか」

「何?」

「……何で隊を辞めた」

 二宮の質問に、わたしの手が止まる。
 うわべだけの理由なら、何度も二宮に言ったはずだ。なのにどうしてまた問うのか。

「……前も言った通り、オペレーターに向いていないから」

「そんな奴がなぜ上層部に引き留められて、オペレーターの養成に携わっている?」

 痛いところを突かれ、思わず視線が泳ぐ。上に引き留められた時、「後輩オペレーターを育ててみないか」と勧められたのだ。オペレーターに向いていなければ、こんな誘いなどなかっただろう。
 動揺したわたしに、二宮が無言で視線を注ぐ。じりじりと追い詰められ、本当の理由を言わざるを得ない状況に陥ってしまった。言おうと唇を動かしてはきゅっと結ぶ。それを幾度か繰り返し、やっとわたしは声を絞り出した。

「……二宮のことばかり、考えちゃうから……」

 二宮がリスクの高いことをしようとすれば、わたしは間違いなく止める。活躍も願うが、それ以上に無事を願ってしまう。二宮の方針とわたしの感情がずれていては、上手くオペレートすることなどできない。
 洗いざらい本当の理由を話すと、二宮はため息をひとつ吐いた。
 二宮がこちらを向き、間を詰めてきたと思えば距離がゼロになる。手首を掴まれ、身体を押され、わたしはソファに寝かされた。何かを言う暇さえ与えずに、二宮は唇を押し付けてくる。突然のことに一瞬身じろいだが、わたしの心と身体はすんなりと二宮を受け入れた。キスされながら、「え、朝からするの?」とその先のことまで考えてしまう。
 しかし予想は外れ、唇を離した二宮はそのままわたしの上から退いた。

「甘ったるい味しやがって」

 そう不満げに呟いて、二宮は手の甲で口を拭う。そんなに甘いのが嫌なのか。

「食べ終わったら帰るぞ、。さっさと食え」

 二宮に急かされ、わたしは残りのパンケーキを口に押し込んだ。
 一体どうやって会計するのか疑問だったが、出入り口のすぐそばに自動精算機が設置されており、それで精算するとチェックアウトできるシステムらしい。精算機の隣には派手なピンクの筐体――いわゆる大人のおもちゃの自販機があって、二宮は精算中わざとらしく目を逸らしていた。
 ホテルを出ると、陽の光が眩しい。昨夜は賑やかだった道も、今の時間帯はとても静かだった。人もまばらな道を二宮と並んで歩くと、いよいよ朝帰りという実感が湧いてくる。気恥ずかしさもあったが、二宮との会話は途切れることがなかった。

「あ、二宮。わたしこっちだから、ここで」

「家まで送る」

「えっ、いいよ、もう明るいし」

「……送らせろ。少しは甘えろよ、

 予感が確信に変わったのはこの瞬間だった。おそるおそる、わたしは二宮に問う。

「……二宮、わたしのことどう思ってる?」

 わたしの隣に立った二宮が一歩踏み出しながら「彼女」と返した。



 それから少し経ってのこと。太刀川やのんちゃんに何か言われたようで、二宮がわたしを買い物に連れ出した。汚された服のことは、「ごめん」の一言を貰えればそれで良かったのだが、二宮の気が収まらないらしい。買い物を終えた後、「こういうことはもっと早く言え」と小言を吐かれた。

「ありがと、二宮」

 二宮の方に少しだけ身体を預け、寄り添うようにしてそう言った。
 少し、ほんの少しだけ二宮の口元が和らぐ。ああ、付き合ってるって実感する。この幸福を、わたしは存分に噛みしめた。